手繰と陸る網



静かに時は流れ、子宝にも恵まれた弟は、今も変わりなく美しい妻の寝姿に、海の宮の時間の流れと人の世の流れが違う事を、ふと思い出すのだ。
自分がこの世に生ある限り、這子はずっと側に共に居て海の潮で焼けた腕を求めてくれるだろう。
なんという天恵かと、腹の中でごちた。
いつしか白髪の混じった髪を、娘のようにしか見えない妻が、優しく手櫛で梳く。

「お大切なわたくしのあなた。間も無く兄上様がお迎えにいらっしゃいましたら、今度は這子と共に、海の宮に参りましょうねぇあなたはもう十分、人として長くお生きになりましたよ。」

「ねずっと、わたくしの側に居てくださいね。」

海面を魚の尾が、ぴしゃと叩く。
見慣れぬ赤銅色の珍しい鮫が、若い漁師のの周囲を、楽しげに何度も跳ねた。

「おう。叔父御、お達者か。」

鮫の腹には、小さな小判鮫がしかとかき付いて、餌を食む邪魔をしている。

相も変わらず、天児さまとお仲のよろしいことで。」

龍王の眷属は、人の世と魚の世を自在に行き来できた。
這子と弟の間に生まれた一粒種は、自在に海を行き来した。
下帯一つの身軽な格好で、漁師は小刀一つを口にくわえると、しなやかに深く潜って貝を取る。
魚の仲買も驚くほど、この漁師の船はいつも大漁で海神のご加護が有ると、もっぱらの噂だった。
突然、夜襲を受けて逃げ惑うしかできなかった、家中の人たちの霊がそこに眠る。


腹心の裏切りに、なす術もなくひたすら落ちるしかなかった若様。


うん?


納得できない違和感が、胸の中に持ち上がった。


ちょっと変だよ?


篠塚の当主は生き延びて、これまで代々続いているのが何よりの証拠だと思うんだけど


若様は自分は座敷で死んだって言わなかった?


奥方と落ち延びたはずの若様が、はぐれてしまったなんて話は聞いたことがなかった。

「真子。」


あたしを見つけて、若様が駆け寄ってきた。


きゅんきゅんしっぽを振るのが見える気がする。


やっぱり豆芝みたいで、可愛い。


ただ今日、光の中で薄く透けた若様は、なぜかとても心もとなく見えた。


「ここに、皆は居たのじゃな」


大きな石を見上げる若様は、懐かしそうにそういった。


「わたしは、本来ならここに皆と共に埋葬されるはずであったのじゃ。」


「どうしてそんな話をするの?」


「真子の顔に、聞きたいと書いておる。
違うのか?」


あたしは若様のほっぺたを、むにゅと両方から引っ張った。


そういう大人みたいな気は、使って欲しくなかった。


「行こう、若様。読経の時間よ。」

あたしは、若様の手を引いて本堂に連れて行った。


ママが小さな声で、文句を言った。


「遅いわよ。」


ご住職の後ろに皆神妙に並んで、読経を聞いた。


頭上を、涼やかな風が通る


まずいここで眠気がくるのは、いけないと自分でも思う。


余りに罰当たりよね


ふと、隣を見ると若様は先ほどよりももっと薄い姿になって、座布団の上で寝息を立てていた。


抱き上げようとしたら、手がすっと抜けてしまった。


「うそっ!」


若様に触れなくて、焦ったあたしは読経中だというのに、思わず声を出してしまいママににらまれた。


これって、若様一大事の予感。

結局の話。


後から分かったのだけど、どうやら、修行を重ねたご住職の読経には、ありがたくも浄化に絶大な効果が有るらしいのね。


霊体の若様は、徳を積んだご住職のお経に清められ、思わず思いも遂げないまま、うっかり「成仏」してしまいそうになったらしい。


その後、あたしは読経中だったけど、若様に声をかけて無理やりおばあちゃんの家に帰ってきた。



それは代々の住職だけが知る秘密事項になり、何百年もの間、篠塚の当主すら知らない秘め事だった。



火の中で亡くなった若様は、きっと亡くなった後、どうしていいのか判らなかったのだと思う。


親より先に亡くなった若様は、ただ呆然と立ち尽くすことしかできなかったのだと思う。


あたしは視えた映像を持て余しながら、お寺の青石のところにいた霊に会ってみようと思っていたのだけど、この状態じゃ宗ちゃんは役に立ちそうにない。



今のところ、あたしに見えるのはご先祖様の霊だけだから、もしかすると青石のところにいる人は若様につながる人なのかもしれなかった。


前向きな期待ばかりで、どうなるかわからなかったけど、とにかく若様が泣かなくて済むように、何とかしてあげたかった。
ご先祖様からしたら、おばあちゃんは直系だから、あたしよりも霊には親しみやすいかもしれないしね。

おばあちゃんはすぐ横で般若心経を唱えてくれていたけど、あたしの鼓動は隣に伝わりそうなくらい、大きく打っていたと思う。


霊媒体質の宗ちゃんと違って、あたしは霊が憑くという初めての経験に、すごく面食らっていた。


あたしであって、あたしじゃない感じ。