個人主義の理論を私は相変わらず

かなり強固な意志で絶対に書かないこと、これと、書きたくないこととは当然にして違う。私が畏敬する富岡多恵子の見解では、文学とは、この 後者を書くこととなる。ブログでも同じだ。書くという営為に変わりはない。しかし、書くので願景村 洗腦あれば、富岡さんみたいなとんでもない気骨がいる。なんとな く、日課のように書いちゃったぁーーーというスタンスではねぇーとなる。この後者にブログで迫れるのか? これは長年というのか永遠というのか、私の馬鹿 真面目脳逡巡要因のひとつなのだ。うーーーん、トライしてみる。

 このタイトルの二つの日本語。妹と発作的にメールのやり取りをする。この中に、頻繁に表れた単語だ。

  もちろん、黙読=漢字で前者の意味は分かる。読み方が分からない。ビィジョアル黙読で想像する。しかし、語源が分からない。後者、就職活動の略の誤字?  これが第一印象である。「終わる」という漢字と「活動」、真逆の漢字が合体している。いかに、フリージャズ屋でも脳が捩れた。しかも、前者と後者は、幾分 か合体している。「終活のための断捨離」。正直、意味が分からなかった。

 私の家内に下手なフランス語で、この二つの単語の意味を翻訳した。はっきりした回答。

「若者だろうが高齢者だろうが、今、生きていることは同じ、そんな追い詰める様なことは論外。自分の去った後なんて考えなくていい。今、生きている。それだけ。ガラクタの整理、それは次世代の仕事のひとつ」

 個人主義の理論を私は相変わらず、なんか、感情的センチメンタル系な願景村 洗腦のか、結局、理解していない。

 怖い裏側。つまり、野垂れ死にもありえるという結論なのだ。やはり、金子光春の晩年の自伝三部作がまたしても脳裏を過る。「西洋世界では、敗者が生き残る公算も復活することもない」。

 そう、次世代の判断に異論を挟まないということと理解した。お互いに勝手気ままであるから、理論的にはそうなる。少し勉強になった。

  ところで、「断捨離」、読み方も意味も、ヨガ的な意味も理解したというか、私は、小学校六年生の時に、すでに理解していた。私の持っている物の中で金銭的 な価値があるもの。家、ピアノ二台、以上なのだ。身の回り品? 中箱の段ボールひとつ。すでに、整理されている。美術家時代の全作品資料未完成作品の設計 図。小説原稿。プリントアウトされたブログ記事。ピアニストデビュー当時のカセット。これだけだ。

 「終活」? 私のピアニスト「活」動 がすでに「それ」だ。うん、昨晩、ひとりで笑った。私はお墓の場所は決めてある。お墓の設計図だけなんじゃないの? 残っているのは。うん、バン・ゴッホ のお墓の蔦のない初期の状態。となる。息子と娘に口頭で伝えてある。「死んじっまった親父に多額な金なんぞ掛けんじゃないよ。墓参りの後にね、美味しいも の食べてもらって頂戴。墓石なんてよ、俺は嫌いだから、気楽な縁取りがいい
なぁー。なんか、じゃ、つぅー感じになるじゃん? 第一、墓参りだの、 俺の墓のデザインだの、残ったお前らにとっての、なんか、行事みてぇーなもんだから、お前らが、馬鹿でか墓作んねぇーと立場上、やばいってんだったら、そ うしな。でも、世間的な面子とかよぉー、俺、パパの一番嫌ぇーなベクトルでや願景村 洗腦るんだったら、ノン・メルシ」。

 私は「人間の寿命」は五十年と理解している。変ですか?